心が痛むってどんな時?
心が痛んで負ってしまう傷の具合は様々だけれども
かりっとしたひっかき傷ぐらいなら日常茶飯事だ
気にしないようにしているにも関わらず、いつのまにか静かに降り積もる痛み
自分でも気付かないうちに、深い傷を負っていたりもする
ときどき何かでスイッチが入って、その痛みは私を苛むのだ
身体の傷は治っても心の傷は誰にも見えず、自分でさえもその大きさはわからない
自分で自分の傷をなめても、治らない場合もある
誰かに癒されなければ、治らない傷がある
よく聞く言葉に
「人は人に傷つき、人は人に癒される」
というものがある
ああほんとうにそうだなと思う私は、体中が小さなひっかき傷だらけだ
ちょっとした誰かの言葉に傷ついて、何気ない誰かの言葉に癒される
そんなことの繰り返し
それでも
目に見えない血をだらだらと流しながらも
人を信じることをやめられない
かさぶたをたくさん作りながらも
人との出会いを信じたいと思う心をとめられない
人の心の裏にひそむ悪意に気付いても
私には、性善説を信じたいと思う心がどこかにあるのかもしれない
なにげない人の言葉で、癒された記憶があるのかもしれない
************************
いつからかわからないけれど、ニュースを観るたびになんともいえない思いをすることがある。
特に少年犯罪や、年齢の若い犯罪者の事件の時。
事件の詳細や人間関係、犯罪に至るまでの経過や犯人を知る人のインタビューなどが報道される。
そして犯行を行った人間の昔のアルバムや卒業文集を公開。
アナウンサーが犯人の書いた文章を読み上げる。
そのたびに私はちりりと胸の痛みを感じる。
こんな人間がどうして事件を起こしたのだろうという流れで、
犯人を生身の人間、一個人として印象付け、
人間の心の闇といったものを感じさせるための一手段なのかもしれないが、
アルバムの写真(たいていはモザイクだったりするが)や自筆の文字を見るたびに、
このアルバム、誰が番組に提供したんだろうという疑問が頭に浮かぶのだ。
学校側が任意で提出したりしたのだろうか。
警察が物的証拠として押収したりしたものだろうか。
事件があるたび、番組側はアルバムや卒業文集を手に入れるために奔走しているのだろうか。
彼らに渡す人はどんな人なんだろう。
・・・・・。
そしてまた目に見えない傷が加わったような気がするのだ。
でもたぶんきっと気のせいだろうと思う。
次の瞬間、画面にはおいしそうな回転寿司のお鮨がアップになり、
どれだけ安くて新鮮なネタかというリポートが始まり、
それにくいいるように見つめる私はたちまち食欲のとりこになるのだから。
**************
と、ここまで書いて、今聴いている曲が
ルイ・アームストロング「この素晴らしき世界」に変わったとたん、
「この日記、アップするのやめよっかな・・・」という思いに囚われました。^^;
だってこの曲を聴いたら、
「世界って、人生って捨てたモンじゃないかもね☆」
っていう気になったんです☆感化されやすいのワタシ
でも実はこの日記、おとといから足掛け3日(っていわないか^^;)かけて書いているんです。
なのでドン引かれされようが、UPします~☆