« 飲みもの | メイン | テレビウォッチング(菊花賞) »

青い日記帳 TOP > スポーツ > 競馬 >

Gのレース(菊花賞によせて)


明日はいよいよ10年に一度出るか出ないかの歴史的レースの日である。
無敗で3冠馬は21ねんぶり☆

三冠馬にむけて

「Gの名言」と競馬初心者のかたへも♪


明日はほんの365日のうちのたった一日。
しかしその一日のためにどれだけ多くの人の想いがのっているのだろう。
もう何もいうまい。伝説を見届ける証人になりたい。

1996年 スプリンターズステークス

歴史に残るといわれた12分間の写真判定の結果、1センチ差で勝負は決まった。
検量質で2位の熊沢騎手は悲痛な声をもらした。
2位エイシンワシントンの管理調教師は、故障するまで馬をつかう主義。
この馬の休養した時の理由は全て故障によるものだった。
1位になったフラワーパークの田原騎手はゴール直前、
フラワーパークの頭を抑えるように手綱を持ち替えたという。
このレース、2頭の馬の力の差はないが1センチの差を招いたのは、勝負を知り抜いた騎手の判断ととっさに動いた機転の差だったのかもしれないといわれている。
このエイシンワシントン、年が明けて62キロというとんでもない酷量でレースに出走しようとするが、厩舎所属でこの馬の主戦騎手でもある熊沢騎手がこのレースにつかわないで」と管理調教師に言いに行ったら、「お前は2度とうちの厩舎にくるな」と言われ、他の騎手に変えられた。
しかし、レース前の調教中に大きな故障を発生し、そのまま引退。
一時は生命の危機もあったが種牡馬となることができた。
一度もG1を勝つことができなかった。


※熊沢騎手
この騎手はけっこう名馬に乗っている。
しかしここ一番!というところで勝ちきれないので、G1などの大舞台では
有名な騎手に変えられてしまうということが多々ある。

騎手の腕の差だといわれればそれまでだけど、馬が本格化する前からレースを教え、大事に育ててきたお手馬のおいしいところを持って行かれるというのはせつない。
社会のあちこちにみられることである。焼肉定・・弱肉強食☆

こういったものをふまえた上で「Gの名言」
過去のGの名言集フジテレビ「あしたのG」という番組内より~)を読むとえらい感慨深い。

スプリンターズステークス

1996年 フラワーパーク 松元 省一 調教師
1着と2着の差はわずかに1cm・・・史上最小差で勝利した松元師は、2着馬の陣営を気遣った
「同着でもええんやけど・・・。」


菊花賞

1983年 ミスターシービー 吉永 正人 騎手
道中、最後方からスパートし4角先頭で押し切る…。常識破りの戦法の裏には、愛馬への信頼があった。
「馬の行く気に任せただけ。それを邪魔しなければ馬は走ってくれるものです。」

1984年 シンボリルドルフ 岡部 幸雄 騎手
ゴール前、2着馬に迫られるものの、皇帝と岡部にアセリは全く無かった。
「ヒヤリともしなかった。(馬体を併せたら)抜かせない、というふうに教えこんであるから。」

1994年 ナリタブライアン 南井 克巳 騎手
道悪も、大逃げを打つ馬もモノともせず7馬身差のレコードV…。怪物に死角は無かった。
「本当に強い馬はなんでも克服できる。」

1996年 ダンスインザダーク 武 豊 騎手
ダービー2着の雪辱を晴らす為、大言壮語しない男がレース直前 橋口調教師に決意を告げていた。
「今日は勝ちます。この馬で勝ちます。」

1999年 ナリタトップロード 渡辺 薫彦 騎手
皐月賞3着、ダービー2着と惜敗続きの春を経て渡辺は悩み抜き、そして一つの結論に達した。
「能力では負けないと信じて乗った。この馬の力を一番知っているのは、僕だから・・・。」

2003年 ザッツザプレンティ 橋口 弘次郎 調教師
ダンスインザダークの菊花賞以降、G I では2着8回と勝ち切れなかった橋口厩舎が、ダンスの仔でG I を制した。
「G I は勝って初めて価値がある。それをダンスの仔で・・・しかも菊花賞。こんなに素晴しいことはない。」

天皇賞・春

1993年 ライスシャワー 的場  均 騎手
-12g…、究極の仕上げでライスシャワーは王者に立ち向かった。
「マックイーンに勝つために、ライスを鋭い刃物のようにとぎ澄ました。」

1995年 ライスシャワー 的場 均 騎手
ブルボンの三冠とマックィーンの天皇賞・春、三連覇を阻止した。ライスの復活勝利・・・ファンの歓声を聞き的場は思った。
「僕とライスはずっと悪役だった。でもこの馬も、すごく人に感動を与えたんだな。」

オークス

1985年 ノアノハコブネ 音無 秀孝 騎手
西洋料理のコックから騎手に転向した苦労人は、G I 初勝利に驚きを隠せなかった。
「へえー、俺が1着かぁ。ほんとうだろうなぁ・・・。」

1986年 メジロラモーヌ 河内  洋 騎手
勝つだけでなく、ラモーヌの力を証明する―それが河内の仕事だった。
「強い馬をより強く見せて勝つのが騎手。」

1990年 エイシンサニー 岸  滋彦 騎手
この日が東京コース初騎乗だった関西の若者は、秘策を胸に本番にのぞんだ。
「道中は武先輩(豊騎手)の後をついて行ったんです。そうすれば間違いないでしょう?」

1991年 イソノルーブル 松永 幹夫 騎手
1番人気の桜花賞は、落鉄の末に5着敗退…。オークスまでの6週間、男は地獄を見ていた。
「桜花賞であんなことがあり、もう一生、G I は勝てないかと思った。」

1992年 アドラーブル 村本 善之 騎手
自身初の牝馬クラシック制覇にも、派手なポーズはなく“仕事人”村本は、静かに勝利をかみしめた。
「いい仕事ができた。」

1994年 チョウカイキャロル 小島 貞博 騎手
小島の師匠、戸山調教師が亡くなって一年・・・。オークスの翌日は一周忌の法要だった。
「これでいい報告ができます。恩返しができました。」

1996年 エアグルーヴ 伊藤 雄二 調教師
熱発明けで3ヶ月ぶりの実戦ながらエアグルーヴは能力全開、次元の違う強さを見せた。
「狙っていたレースに仕上げるのが調教師の役目です。」

1997年 メジロドーベル 馬主 北野 ミヤ
最初にドーベルを担当していた、堀口厩務員の突然の死から3ヵ月・・・ドーベルはオークス馬になった。
(口取り式で一人分のスペースを空けて)「ここは、堀口さんの場所。」

日本ダービー

1988年 サクラチヨノオー 小島  太 騎手
直線、調教師が「2番でいい!」と叫ぶほどの劣勢の中、小島のムチがうなりを上げた。
「百の力を百二十出せと、馬に要求した。まともじゃない。鬼のようなもんです。」

1990年 アイネスフウジン 中野 栄治 騎手
若手が台頭する中、意地を見せたベテランに史上初の勝者を讃えるコールが響いた。
「武豊が何だ、横山(典)がどうした。
 俺は、ヤツらが幼稚園に行ってる頃からダービーを見て、馬にまたがっていたんだ。」

1992年 ミホノブルボン 小島 貞博 騎手
デビュー前から調教に乗り、師匠の戸山師と共に自らが育てた愛馬が、小島に初の勲章をもたらした。
「僕を男にしてくれた。ブルボンは家族以上の存在です。」

1993年 ウイニングチケット 柴田 政人 騎手
ダービーを勝てたら、騎手を辞めてもいい…
デビューから26年、男はダービーを求め続けていた。
「世界中のホースマンに第60回の日本ダービーを勝ったと報告したい。」

1993年 ウイニングチケット 柴田 政人 騎手
キャリア26年・・・44歳の1600勝騎手は19回目の挑戦で、やっとダービージョッキーになった。
「これで、歴史に名を残すことができた」

1997年 サニーブライアン 大西 直宏 騎手
皐月賞を制した馬が6番人気・・・そんな低評価をあざ笑うかのような逃走劇で、二冠馬が誕生した。
「1番人気はいらない。1着がほしかった。」

1998年 スペシャルウィーク 武  豊 騎手
3歳の時に見た、父・邦彦のダービー制覇から26年…、息子は偉大な父に追い付いた。
「父のダービーを見て、いつかは僕も勝ちたいと思っていた。ホント、叫びたいぐらい嬉しい。」

2000年 アグネスフライト 河内  洋 騎手
弟弟子の武豊との叩き合いを刺し、17回目の挑戦で、やっと河内は笑った。
「ここまで、長かったな。今晩は(飲んで)意識不明になるやろな。」

2003年 ネオユニヴァース ミルコ デムーロ 騎手
史上初の外国人ダービー騎手となった、イタリアの天才は13万人のミルコ・コールを聞いて、心を震わせた。
「イタリアダービーを5回勝つより1回、日本ダービーを勝つ方がうれしい。」


今夜は何人のホースマン(競馬関係者)が眠れぬ夜を過ごすだろう・・・。


トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://xs22.xsrv.jp/mt/mt-tb.cgi/6076

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)



カテゴリー