この家光は、女嫌い男ぐるいで有名なお方だった。^^;(前回の日記の続き)
「まぁ男性と性行為をするのは江戸時代に限らず戦国の武士の時代では当たり前 (と言ったら語弊があるかもしらんが) むしろ推奨されてる!?くらいの風潮があったらしいのでどうこう言うつもりはない。」
全く女性に見向きもしないとなると将軍の世継ぎは?ということもあり、 周りはやきもき(特に春日局)
しかし家光、尼さんにひと目ぼれをして還俗させ、側室とした。
「このお万の方は、生母となることはなかったが、
家光を女性に目覚めさせたという点で重要な人である。」
「大奥」では瀬戸朝香がやっていた。嫌いじゃないし美人でよかったんだけど、
「菩薩のような美しい女性」というには喋り方というか声音がちょっとな~と思った。
どうみても強そうじゃん。家光役の西島秀俊さんよりよっぽど☆しかしこの殿方は線が細いなあ・・・。
余談だが、「大奥第一章」のキリシタンの半井隼人(金子昇)とその姉・おゆき(遠山景織子)は二人ともすごくよく演じていたと思う。
特に金子くん☆彼は時代劇いいんじゃないの。役柄にすごく溶け込んでいるだけでなく、存在感もあって将軍家光よりよっぽど華があったよ*^^*
家光はその後、けっこうな数の側室を迎え、子供もたくさん授かった。
お世継ぎの心配がなくなってよかったよかった。(by春日局)といったところだろう。
この家光、幼少の頃は竹千代と呼ばれ、まさに「生まれながらの将軍」だった。 竹千代(家光)は乳母のふく(春日局)に愛情をもって育てられた。 吃音で美麗とはいえない竹千代(家光)よりも両親は弟の国松(忠長)を可愛がっていたが、家康は将軍継承は「長序の順」から継続するものだと宣言。 実は危なかった竹千代(家光)の将軍継承は家康のひと声で救われたのである。 これは争いごとをしないためにという家康の思いがあった。
子どものときに、人質として苦労してきた家康は戦争の怖さ知っていて、
自分の死後、戦争のない平和な時代にしたいという気持ちがあったと考えられる。
(家康は青年になるまで今川義元の人質で、桶狭間の戦いで義元が織田信長に討たれてから大名として独立した。)
家康以後、260年間戦争のない平和な時代が続くことになったが(一揆や争乱などは除く)、
徳川家康の最大の功績は、戦争のない平和な時代をつくりあげた点かもしれない。
企業でも会社でもそうだが三代目のありようがその後を決める。
その重要な位置である家光は有能な家臣に支えられて260年も続く徳川幕府の体制を確立した。
しかしじーちゃん(家康)の墓である日光東照宮の建立や、参勤交代(武家諸法度の一部改定)を義務付けるなど、幕府の財政逼迫のはじめはこの時代からだったといえる。
この参勤交代、地方の有力な大名の幕府に対する勢力を削ごうという目的ではじまったらしいが地方からはじまって幕府全体が弱ったら元も子もない。
この後世、何度も改革を必要とするほど幕府の財政は窮乏し、庶民の暮らしは様々な改革などでふりまわされまくることになる。
家光の時代といえば、鎖国政策と島原の乱か。
このふたつ、えらい奥が深いのでこれはまた別にとりあげようかと。^^;
一気にすっとばして、江戸時代のことにちょっとだけ触れてみよう。
島原の乱以降は明治維新まで大きな戦乱はない。(ですよね?)
鎖国以降、ペリーが黒船に乗って「そろそろ出てこいや~☆」と眠っている日本の目をこじ開けにやってくるまで日本独自の文化が形成され、現在の日本の伝統文化といわれるものの多くの形態が確立されることになる。
国内重視政策がとられ、地方中央との関わりも深くなり(参勤交代に伴って人やモノが流通、道などの基盤も整ったため)、 日本人の美徳とされている 「義理、人情」「いき」「だて」といった精神文化が育まれたのも江戸時代。
新しいものと古いものとが交錯し、流行や情報に敏感だった江戸時代の文化は爛熟した。
当時世界では類をみないほど発展した江戸は人口が100万人を超え、町人文化は隆盛を極めた。
(同じ頃のロンドンやパリでもせいぜい70万~80万人台である)
そのせいでごみ問題や水不足が深刻な問題となった江戸だが、ごみ収集はなかったが各自家庭でゴミを土に埋めたり、川に流したりして処理していた。
そして江戸時代の町全体でうまくリサイクルをしていたのは知っての通り。
・あらゆるものや道具を直す職人さんがいて、直せるものは直して最後まで使い切る。
ちょうちんはりかえ、そろばん屋、研(と)ぎ屋、瀬戸物(せともの)の焼きつぎ、鋳(い)かけ(なべ・かまの修理)、桶直(おけなお)し、眼鏡屋(めがねや)・・・・。
・売れるものは売る
三つ物売り:手作りの布は貴重で、古着屋がとても多かった。
献残屋(けんざんや):余った贈り物や頂き物を買い取り売っていた。
・集めるものは徹底的に集めて売る。
古かさ(骨組みを生かして修理し油紙を貼って新しく売ることができる)、
紙くず(古紙はなんと再生されていた!専門の業者に売れた)、
ゴミ、肥やし(農家はお金を出しても欲しがった)、
ろうそくの滴(当時はろうそくが超貴重だった)・・・。
なかでも町中を歩き回って木を集める人がいたが、これは銭湯の燃料にするためだった。
銭湯の料金は150年も町奉行の命令で変わらないため、経費節約のために湯屋(銭湯)の人は木を拾って燃料にしていたのだ。
これが町の美観を守り、町人の負担にならずにお風呂に入れることにもつながった。
当時の日本はヨーロッパに比べて町も人も清潔だったといえる。
汚物を街中に投げ捨てたり、お風呂に入らず香水の匂いで体臭や汚臭をごまかしたりするのと比べると、衛生観念においては日本は優れていたのではないだろうか。
少なくても私は当時の外国に行きたいとは思わない~。
明治維新後の日本に外国人が多くやってきた時においても、
鼻をかんだり淡を出したハンカチを平気でポケットにしまってまた同じハンカチを使っていた外国人。信じられない~。
日本人が着物のふところから紙を取り出して(懐紙みたいなもんだろうか)、
一度ごとに使って捨てているのを観た外国人が
「なんて日本人は清潔なんだ!」と感激したエピソードがあったな・・・。
おいら、一度手を通した衣類や手にしたタオル・ハンカチはすぐに洗ってしまわないと気がすまない性質なので、衛生観念では日本バンザイなのだ☆
おフランス、おパリにあこがれはあるが、
水が悪くて洗顔に水道水が使えない、
シャワーのお湯はしょっちゅう壊れて使えないのが当たり前、
というお国柄にびびってしまってまだ一度も旅したことがない・・・というか気が進まない。
日本が異常にキレイ好きというのもあるだろうし、故障なんてありえないお国柄でそれに慣れてしまっているというのもある。
トイレ事情が全く違う中国にも行く気になれない。
話を聞いただけでびびるのに、行った人からは旅を勧められることがない。
万里の長城が観たいのになぁ・・・。
話がそれまくりましたね。
人口過密都市だった江戸だが、大量に出るゴミで海を埋め立てて土地は広くなった。
今の築地は江戸当初はまだ海の中。
どんどん埋め立てられて江戸時代が進むに連れて広くなり、住宅事情も改善されてゆく。
しかし家康が徳川幕府を関東の江戸(今の東京)に開こうと思ったのが素晴らしい。
といっても独立してまかされた領地が関東だったからなのだが。
江戸を100万人都市にして京都と大阪の2大都市に対抗しようとした家康。
政治的にも経済的にも京都と大阪に対抗するには二つの人口およそ50万人の倍の人口が必要だったということをわかっていた。
土地の選択が問題だったが、よく考えられたいい場所だったといえる。現在の東京も江戸時代の恩恵の上に成り立っている。
江戸も京都の都とおなじく風水学的に観てもとてもよい土地だった。
ま~平安京は桓武天皇が怨霊だとか(私には罪の呵責にしか思えんが)に怯えて作った都だからそっちの(もののけ系)対策としての風水はバッチリだった土地。
この桓武天皇、天皇らしい最後の天皇とか巷では言われているそーだが、私には????である。
何度も都やおおがかりな建造物を作りやがって、農民を苦しめただけじゃんか☆みたいな。
まーでもこの天皇も不遇の時代はあったし、せつない恋話もあったりで下々の生活のことはわからん天皇ではあるがそれなりにドラマはある。
「どっかの国の「お腹が空いたの?パンがないならお菓子(ケーキ)を食べればいいじゃなーい?」に通じるものがあると思うのは私だけ?彼女も美青年貴族との恋愛があったりしたしな~☆」
桓武天皇あたりもひじょーに面白いので、これについてはまた別でとりあげてみたいと思う。