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相撲と競馬


観戦には勝負服で

芸術鑑賞やスポーツなどは生で観るとやっぱり素晴らしいと思うことがある。

空調の効いた部屋でくつろぎながら、並ぶことなくトイレに行ったり飲み物を手にして、テレビ画面に映る表情のアップを観たり解説を聞いた方がいいじゃんという意見もある。
でもテレビで観ている時に、
「ああ私もあそこで、これを観ていたいなあ」
と思ったりするのは競馬と相撲かもしれない。

なぜだろう。

どちらも舞台装置というか、会場全体の雰囲気や景色だけでも素晴らしいからか。

とくに相撲はまだ目の前で観たことがないのであこがれが強い。

テレビで観ていると極彩色豊かな会場の様子が時代絵巻物みたいに思えてくる。

競馬もそうだが相撲はお客さんがテレビの画面に映る頻度がより多い。

お客さんの服装や飲み食いしている様子、応援している表情までまるわかりなのである。
私にとって相撲の取り組みと同じくらい楽しみなのはそういった会場の雰囲気だ。

着物を粋に着こなしている女性や、どうみても影があるお兄様方や、海外からのお客様などなど。

客層や応援の声援までもが時代がかっているようで楽しい。

土俵の上は聖域であり、力士たちは舞いならぬ取り組みを神に奉納する。

相撲は何もかも儀式めいている。

江戸時代からの風景がそのまま再現されたような力士たちの姿や土俵のしつらえ、立行司の仕草、呼び出しの声。

俗世間や現代とはくっきりと切り離されたような世界だ。

なのに、力士の通る「花道」を一般のお客さんがトイレや買出しの為に自由に出入りするアバウトさ。

畳と布団の国の精神だから可能なのかなーなんて思っている。


私は自分の中で競馬や相撲をちょっとだけ特別な場所に置いている。


相撲が国技云々というのを覗いても、競馬も相撲も歴史と伝統があってごく限られた狭い世界の中のもので、一瞬で勝敗がつく舞台であるから。

(歌舞伎などの伝統芸能もそうかもしれないけれど「勝ち負けを伴う」ことによってそれは別枠にくくらせてもらう)


春は桜、夏は花火、秋は夕暮れ、冬は雪、のような一瞬の儚さと、かたちが無いものが脈々と受け継がれるものに、私の中の何か(日本人の心情のようなもの?)にひっかかるのかもしれない。

そして「世紀の一瞬であるかもしれない勝負」を観戦することにちょこっと優越感がもてる☆
(相撲の場合は「観戦」でなく「見物」というらしい。お芝居と一緒☆まさに土俵上は舞台なのね)

その一瞬を目にする時は、新しくしつらえはできないものの、きちんとした身なりで臨みたいものである。
(テレビに映るかも、という俗な考えもちょこっとよぎる☆)

競馬のジョッキーの勝負服、土俵上の力士の廻しと立行司の装束に勝る勝負服はないのですが。

競馬もそうだけど相撲を見に行くと美味しいものが食べれるみたいで、食いしん坊の私にはたまらない♪


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